遅くなりましたが、「その時歴史が動いた」を見たのでちょっとだけ。冷静に見られるかなと思ったのですが、番組ラストの松平容保公の歌で突然涙がダーッと。
そんな自分に驚きつつ、やはり藩としていちばん興味があるのは会津だと再認識。幕末で、最も苛酷な運命を辿った藩の一つであると思うのです。それにしても、容保公は会津の人々を本当に心から大切にしていたのだと思わせるエピソードが幾つもある人ですね。だからこそ、人々もまた容保公を敬愛したのでしょう。飯盛山の白虎隊士を悼んだ句碑が頭によぎりました。
そんな番組のサブタイトルは「義に死すとも、不義に生きず」でしたね。「義」という言葉を聞くと、一つどうしても忘れられない歌があります。
【義のために つくせしことも 水の泡 打ちよす波に 消えて流るゝ】
これを詠んだのは新選組隊士、横倉甚五郎。弁天台場降伏時に詠まれたもので、横倉の辞世の句です。
私がこの歌に出会ったのは、二年前に会津一人旅をした時。会津武家屋敷内の小さな資料館で初めてこの和歌に触れた時、ガツンと頭を殴られる衝撃を感じました。
横倉は、箱館においての所謂新選組古参隊士の一人です。入隊は元治元年、伊東一派と同時期の入隊。入隊直後は武田観柳祭率いる六番隊に所属、油小路の変で奮戦。鳥羽伏見、甲州勝沼、会津、そして箱館へと転戦します。弁天台場で終戦を迎え同所での謹慎を言い渡されたものの、その後坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられて東京の糾問所へ送られました。その取り調べの最中に獄死。享年37才。箱館戦争終了後、一年あまり後のことでした。
「義」とは何だったのだろう。横倉の詠み込んだ「義」を正確に理解することは到底無理な話です。私たちは彼自身ではないのだから。
忠義・正義・道義・恩義。義という言葉で表現されるものは、数え切れないほどあります。
ただ思うのは、横倉にとって「義」は決して譲ることの出来なかったものなのだろうということです。弁天台場の降伏は、新選組隊士として戦い抜いた彼にとって、全ての終わりにも等しい出来事だったかもしれません。その瞬間に詠む辞世に込められた思いの大きさを想像すると、思わず目頭が熱くなるのです。
あの時代に生きた人は、立場や主張に関わらず、皆それぞれ譲ることのできない「義」を持っていたのだろう、そんな風に思うのです。
だいぶずれた所で本日は終了。
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